西部邁さんの死

正論・異論

新聞に西部邁さんと親しい方のコメントが載せられていた。
家族や周囲に老いていく自分による負担がないように自死を選ばれたのではなかろうかとあった。
また、6月の毎日新聞のインタビューには
「自然死というけども、その多くは病院死なのが現実。それが嫌だと自殺しかない。俺の最後の願望は“当然死”だね。ある年齢で、ある病状を抱え、いろいろとやり尽くした。警察に若干の厄介をかけたようだがどう考えてもあいつは当然死んだ、というね(笑)」と語っている。
自分自身をしっかり見つめることができ、命を絶てる力があるうちにと、選んだのだろうか。
自分の意識が薄れて行く、どこかが凄く痛い、身動きが不自由になった、他人の助けが必要だ。これらを受け入れる、身内に泣き言を並べるのは、エリートとして、評論者として耐え難い事なのだろうか?

私自身は胃ろうして管を何本も口に入れ、ベットの上で過ごすのは嫌だ。下品な話かも知れないが大金を使って、意識混濁のまま生きていくのはもったいない気がする。
頭にベールがかかった様に物事が見えなくなるのだろうか。気がついたら同じ話をしているのだろうか。迷子になって泣きながら親を探しまわった5歳の時にタイムスリップするのだろうか。
何処までがOKで、どこからか周囲に迷惑になるだろけど、自分で境目を見たり感じることは出来ないだろう。
私に判らないその人は私なのか、他人なのか?
私に判らない、意思不明瞭なその人は「正論」では社会不適合者になるのか。

« »

コメントを残す