正しい事

正論・異論

最近、文を書くにも形態やPCなどキーボード入力のなにがしかを利用し、字を書かかなくなったので漢字を忘れてしまう。
年賀状に一言手書きして添えるにも一旦Googleに入力して確認する有様。またブログを書く際も絵や神社仏閣などはウィキペディアで確認して書くようにしている。これで確認すれば、間違っても私のせいではないと言う根性が透けて見える。

つまり、私はWebで正しいとされていることは正しいとして利用している。私自身が初めて経験することや自信の無いことは全てWebに助言を求めているのである。
さて、2030年くらいにはAIは「人」の能力を超えるだろうと言われている。私はこの2019年には既にWebを信頼しきっていて、その内容を批評すべき反論根拠を持っていない。
つまり、私はWebにいろいろ「質問」して、Webから「与えられる情報」を信用している。
質問に対し、いくつかの解答例がある場合も、最も採用されている解答にはベストアンサーが付与されるので、それに従う事にしているし、その選択は自分の意志からの判断だと感じている。
こんな風に、「私」が最終的に最適解を選んぶ判断をしている体裁はあるが、それが選ばれた本当の順位かどうか、本当のところは「私」にはわからない。

Facebookも個人情報をどう匿名化したかどうかは不明だが、150社に売り渡していた。
150社に対し生のデータを開示しなかったと仮定すると、どのように「加工」細工して、一般解として売り渡したのだろう。
Facebookに相当な金額を支払って得た情報も、どのくらいリアルを示しているのかはわからないのである、ましてや無料利用者にとって。
AIは多数の指示や過去の判例、調査結果資料から「一般人」「対価を払う人」「Web管理会社」それぞれに喜ばれる解答を選んで提示するようになるだろう。

ウォルマートは全米数万の小売店を駆逐した、Amazonはそのウォルマートや高級デパートを駆逐しようとしている。Amazonが紹介するモノだけが多くの消費者の目に留まり、Amazonで売れているモノが良いものとされる。
Amazonは作り手の時間が創造性や、中身の素材や壊れにくさの工夫よりも、買い手の感想に評価を委ねる。
でも、その評価、感想は本物なのだろうか? また、多数が良いとする品物が誰にも良いものだろうか? 使い勝手は使い手の経験や技能にもよるはずだ。
いずれんしても、利用者の評価に委ねられているが、評価者が謝礼や割引やその他の得点を得てないと「信じ」られる?

買い手が悩んでいることに、安心できるようAIが自動的に回答したら「悪い事」なのか?
日本でも全事業所からの回答に基づく政府統計とされていたデータが、実は東京地区はサンプリングした事業者のデータだと発表された。サンプリングの方法はあらかじめ決められたものでなく、公表もされていない。
政府の政策の根拠となすべき国の統計情報にも、その作り方の前提に発表内容との差が有った。
今後、AIの判断根拠にもなろう、統計データも信用できない、信用して施策を講じない方が良いかもしれない。
各省に配置される統計局は、省戦力化しても直ぐに影響が外部に漏れにくいため、合理化の対象として大幅に戦力を削がれ、決められた全件ではなく勝手にサンプリングし、補填せずに公開した。(発覚したのは従業員500名以上の事業所調査全件を3分の1程度にして補正せずにデータを利用=相対的に従業員500名以下の事業所の給与等が反映され、失業保険などの各種政府給付金額の算定平均値が低くなっており、その補填に400億円、補填費用の支払い事務費に180億円くらい要する)
国のデータもこのありさまだが、県からの報告も了承していた。実は相当昔から全件調査していなかった。等々が出て来る。
これらの一部を内々で補正した(大会社の給与がより反映された)ので、平均賃金が上がり、アベノミックス効果で労働者の平均賃金が上がったと喧伝されていいた。
他にも統計データの操作が各省からも出てくれば、ソンタクトウケイアベノミックスの序章として長く伝えられることであろう。

さて、AIは忖度なしで解答するだろうか? AIに上司はいないのか? 
将来、最優秀AIのお言葉に異議を申し立てる事は出来なくなるのではないか?データの処理はAIにとってはお手の物だ!

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